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渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

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渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

渋沢栄一ゆかりの地

日本近代史に大きな足跡をのこした渋沢栄一は、約500の企業と約600の社会事業を育成したと言われています。
深川福住町に住み、旧深川区の区会議員、深川区教育会会長でもあった栄一は、江東区とも大変ゆかりのある人物です。
こちらのページでは、2021年10月、11月に実施された「渋沢栄一ゆかりの地をめぐる まちあるき&クルーズ」ツアーより、見どころをご紹介します。

  ツアー名:-江東区・渋沢栄一関連イベント- 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる まちあるき&クルーズ
  実施日:2021年10月19日(火)・22日(金)、11月5日(金)
  案内人・監修:龍澤 潤(深川東京モダン館副所長/学芸員)
   実際のツアーでは、案内人の解説を聞きながら兜町界隈のまちあるきをし、途中、日本橋船着場から
   黒船橋乗船場までをクルーズ体験。下船後、再び門前仲町界隈のまちあるきをしました。

 ※ご紹介する内容には、他区の関連施設も含みます。
渋沢栄一ゆかりの地 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる
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銀行発祥の地(みずほ銀行兜町支店)

明治5年(1872)5月21日、大蔵大輔井上馨と栄一は、三井・小野組の幹部を集め、両者で共同して国立銀行を創設するように指示しました。三井組は単独で銀行設立を計画していましたが承諾し、翌6年6月11日に第一国立銀行創立総会が行われました。栄一はその前月に井上馨とともに大蔵省を辞職しており、実業家栄一としての第一歩を踏み出したといえるでしょう。
当初、この場所にあった建物は三井組ハウスとして、2代目清水喜助によって設計され、明治4年(1871)8月に着工、翌5年6月に竣工しました。ところが、第一国立銀行の設立に伴い、三井組から建物を購入して第一国立銀行として使用しました。

中央区日本橋兜町4-3
銀行発祥の地(みずほ銀行兜町支店) 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

海運橋親柱

第一国立銀行の西側には、かつて楓(もみじ)川が流れており、江戸時代の初期から掘割として使われていました。明治8年(1875)に石橋が架け替えられ、橋の名称も高橋(将監橋、海賊橋とも呼ばれました)から海運橋と変えられています。海運橋の親柱は、中央区民文化財に登録されています。

中央区日本橋1-20先、兜町3先
海運橋親柱 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

渋沢栄一邸跡(日証館)

栄一は、明治21年(1888)12月6日、深川邸から辰野金吾の設計した兜町邸に本拠を移しました。この月の『竜門雑誌』8号によれば、この場所に本拠を置き、前方に第一国立銀行、後方に日本橋川、左右に鎧橋・兜橋を抱え、さぞかし営業は堅実に進展していくであろうと記されています。しかし、大正12年(1923)の関東大震災によって銀行などとともに焼失しています。
その後、昭和3年(1928)に横河工務所設計、清水組施工による鉄筋鉄骨コンクリート7階建の東京株式取引所貸ビルディングが竣工しました。昭和18年(1943)、日本証券取引所設立後は日証館として、リノベーションを経て現在に息づいています。

中央区日本橋兜町1-10
渋沢栄一邸跡(日証館) 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

佐渡の赤石(KABUTO ONE)

佐渡市の赤玉地区から産出される赤石は、鉄分と石英が結びついた硬度の高い鮮やかな赤い石で、縁起物として重宝されました。KABUTO ONE内にある赤石は、栄一が兜町邸を建てた時に日本経済の繁栄を祈念して設置したものです。平成29年(2017)に日証館入口に移設され、令和3年(2021)この場所に再移設されました。

中央区日本橋兜町7-1
佐渡の赤石(KABUTO ONE) 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

渋沢栄一像(常盤橋公園)

昭和3年(1928)10月1日、帝国劇場での栄一の米寿祝賀会にて、寿像建設の計画が決まりました。昭和6年7月、設置場所を旧常盤橋門趾公園予定地に決定し、東京市からの許可を得ました。ところが、この年の11月11日に栄一が死去したことで、栄一を顕彰する趣旨は、渋沢青淵翁記念会に受け継がれました。銅像は朝倉文夫に依頼し、昭和8年11月11日に除幕式を行いました。台座正面の「青淵渋沢栄一」は栄一の筆跡を用いています。
この銅像は、第二次世界大戦の際に供出されたため、その後しばらく台座のみが残っていましたが、有志者が再び朝倉文夫に銅像制作を依頼し、昭和30年11月11日に現銅像の除幕式が行われました。

千代田区大手町2-7-2
渋沢栄一像(常盤橋公園) 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

日本銀行

明治15年(1882)、永代橋の西側にあった旧北海道開拓使物産売捌所の建物を借用し、日本銀行が開業しました。その後、永久拠点という位置づけのもと、現在の建物が計画され、辰野金吾に設計を依頼しました。明治23年から同29年まで7年もの年月をかけて竣工し、昭和49年(1974)に国の重要文化財となりました。

中央区日本橋本石町2-1-1
日本銀行 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

セメント工業発祥の地

明治初年、隅田川沿いの旧仙台藩蔵屋敷の土地に深川摂綿篤製造所が建設されました。これが国産セメント製造の端緒です。明治6年(1873)に工部省に出仕した宇都宮三郎によって開発が進められ、同10年に深川工作分局と改称し、本格的なセメント製造が始まりました。
その後、明治政府は全国の官営工場を民間に払い下げることとなり、深川工作分局も明治16年にその相手を募集します。これに手を挙げたのが浅野総一郎です。まだ世間的に知られていなかった総一郎は、面識のあった栄一に協力を依頼します。その結果、同17年に払い下げを受けました。この石碑はセメント工業発祥を記念して昭和12年(1937)に建立されました。

江東区清澄1-2
セメント工業発祥の地 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる
 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

尊農之碑(釜屋掘公園)

明治時代に入り、本所・深川の堀割沿いに工場が建てられていきます。大名屋敷が多かったことから広い敷地が確保でき、隅田川、中川、江戸川といった水上交通の結節点であったことが要因です。東京人造肥料会社や抄紙会社深川分社など栄一ゆかりの会社の工場も小名木川沿いに建設されています。

江東区大島1-2(釜屋堀公園)
尊農之碑(釜屋掘公園) 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

食糧ビルディング跡

食糧ビルディングは、昭和2年(1927)に建築された鉄筋コンクリート3階建のビルで、深川正米市場の拠点でした。深川は江戸時代から米穀の一大集散地であり、多くの取引が行われてきました。栄一の従兄弟渋沢喜作は、大蔵省退官後、栄一のアドバイスで米穀と生糸を取り扱う渋沢商店を開きます。
明治19年(1886)、深川の廻米問屋によって東京廻米問屋市場が開設され、喜作は初代総行事を務めました。昭和7年、東京廻米問屋市場は深川正米市場と改称しますが、昭和16年に廃止となりました。食糧ビルディングは、平成14年(2002)に惜しまれつつ解体され、跡地のマンションにはモニュメントが設置されています。

江東区佐賀1-8-13
食糧ビルディング跡 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる
 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

村林ビル跡

村林ビルは、昭和2年(1927)に関根要太郎の設計で建てられました。所有者の村林榮助は、伊勢松阪の出身で、同郷の豪商小津与右衛門家に奉公後に独立、雑穀と肥料を取り扱う村林商店を設立します。玄関上部に植物をデザインしたテラコッタが装飾され、中央には村林家の商号籠目模様を配した印象深い建物でしたが、平成30年(2018)に解体されました。

江東区佐賀1-8-7
村林ビル跡 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

渋沢栄一宅跡(澁澤シティプレイス永代)

明治9年(1876)8月26日、栄一は兜町から、深川福住町4番地の旧近江屋喜左衛門邸へ移転します。栄一にとっては、静岡から東京へ出てきて初めての本格的な住居であり、この場所を拠点として実業家としての活動を本格化させていきます。明治15年に長女の歌子が穂積陳重と結婚すると、北側に別宅を建築して住まわせ、自身が兜町へ移ると深川邸は長男篤二の住居となります。栄一の孫敬三も明治29年に深川邸で誕生しました。
栄一が兜町、王子と拠点を移しても深川邸は渋沢家の本宅としての位置付けでしたが、明治38年に深川の倉庫内でペスト菌が発見されたため、篤二一家は芝区へ移転し、住居や池は解体されて倉庫となりました。

江東区永代2-37
渋沢栄一宅跡(澁澤シティプレイス永代) 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる
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福住稲荷神社

この神社は、近江屋喜左衛門邸の頃から屋敷神として鎮座していたもので、栄一が住んでからも引き続き、祀られていました。大正12年(1923)の関東大震災で被災したため、一時富岡八幡宮に遷宮していましたが、昭和5年(1930)2月13日に現在地に遷宮鎮座しました。社殿の扁額は栄一の揮毫によるものです。

江東区永代2-37
福住稲荷神社 渋沢栄一ゆかりの地をめぐる

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